記事: 手と記憶
手と記憶
幼い頃に住んでいた家のことがずっと記憶に残っている。
縁側のザラっとしたとした杉板の手触りや、建具の節が不思議な模様をつくる洗面所の扉、所々ささくれ立った井草を使った畳の触感まで、昨日のことのようにはっきりと思い出すことができる。
谷崎潤一郎の代表作である陰翳礼讃の中に下記の一説がある。
私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味とを何よりも好む。それは生まれたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではああはいかない。
谷崎が書いた一節は、日本人ならすぐに意味を理解することができるだろう。
私たちの手というものは、もしかしたらとても深淵な記憶を宿しているのではないのだろうか。それは個の記憶を越えて、人類が積み重ねてきた集合知かもしれないし、一つの民族が持っている原体験なのかもしれない。
私たちが身にまとうもの、それに触れる両手というのは、遠い祖先から受け継いできた、身体を温め、身を守り、時間によって廃れないものを見わけることが出来る記憶を持っているのかもしれない。
テキスト・写真/井上